今回は、日本の鉄道写真の草分けで現在も第一線で活躍中の広田尚敬さんの登場です。

以前、このコラムに登場した大山謙一郎(※注)さんは偉いです。なにしろ自分の食べるものを365日、欠かさず撮影したんですから。私などは、旅先で料理をついでに撮りたいときでも、目の前に運ばれてくるとつい箸を動かすほうが先なので、大山さんを尊敬してしまいます。

昔の撮影行はとにかくお腹が空きました。起き抜けにレール際を歩き始めると、朝食も昼食もとれません。暗くなってから宿にたどり着く夕食は、ゆっくり味わうこともなく流し込んでバッタリと寝るという始末ですから、料理を見れば即、食べ始めるという習慣が滲みこんでいるのでしょう。それに当時は、コンビニなんていう便利なものはありませんでした。あればカメラバッグに食料をくくり付けて歩けたんですけどねぇ。

ちかごろは、地方の駅に行くと「落書き帳」が置いてあります。かつて訪れた、高い鉄橋で有名な山陰線の餘部(あまるべ)にもありました。さっそく覗いてみると、「わが街にコンビニとマクドが欲しい」と綿々記してあります。きっと地元の通学生の切実な希望なのでしょう。

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[餘部橋梁・夜] 橋の長さは310メートル、高さ41メートルで、日本海に面した大きな鉄橋です。老朽化のためコンクリート橋に架け替える作業が始まっていますが、目下「鳥取砂丘」「カニ」とともに日本海側の3大名所化しています。橋の正式名称は地名と同じ余部橋梁ですが、一般的には駅名と同じ餘部が用いられることが多いようです。どちらも読み方は “あまるべ” です。


鉄骨を組んだ餘部橋梁、見上げると高いんです。虹のようなんです。駅は橋を渡りきった、ふもとにありますが、開業は昭和34年。それまで集落の人たちは鉄橋を徒歩で渡り、トンネルをふたつ潜ると山道を越えて街の中心にある香住駅まで6キロの道のりを歩きました。もちろん小学生も例外ではありません。

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[餘部橋梁の橋脚] 集落の中に突然現れたような鉄骨。 明治45年に架けられたトレッスル式の橋です。

明治時代、小学校は鉄橋とトンネルを越えた6キロ先でした。過酷でした。雪が積もっても素足に草履です。1年生もですよ。しかも餘部の集落から海を隔てた御崎の集落は陸続きですが、かつては小舟が唯一の交通手段でした。御崎が平家の落人集落と言われた所以です。

山陰線が開通した明治末期、御崎と餘部を結ぶ2キロの道が開拓されました。幅は30センチほどで、途中に断崖もあったそうです。御崎から学校に通う子供たちは、朝早くこの道を歩きました。一列縦隊。前を歩く人の帯を両手でしっかり握り締めていないと、崖からの転落もありうることでした。もし落ちたら・・・、落ちたら這い上がれなかったのです。


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[余部小学校の御崎分校] 余部小学校の分校入り口です。訪れた2年前は、1~3年生がここで学んでいました。 生徒数3人、御崎地区集落の戸数30でした。

道のりは往復16キロ。こうした話に接すると、朝昼食べずになどというのは「過酷」のうちに入るものではありません。まして鉄道写真を撮るという好きなことをしているのだし・・・。

今、御崎には分校があります。3年生まではそこで学び、高学年はマイクロバスで、鉄橋の下にできた小学校へと通っているそうです。訪れた分校の入り口には美しい花がたくさん飾られ、昔の子供たちの過酷な通学など想像できないほど、明るい雰囲気に包まれていました。

※注=第16回に登場した大山謙一郎氏のコラム